ジャパン九谷と輸出商

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 江戸時代より発展してきた各地の窯業生産は、明治維新に入って藩の保護や援助が受けられなくなると、一時的に衰微するものがあらわれてきた。

 そこで明治政府は、国力増強のため殖産興業、輸出振興策をうちだし、具体的な方策として、当時海外で催された万国博覧会への参加や、明治10年(1877)の第1回国内勧業博覧会の開催など、明治政府自らの手によって行った。

 これら内外の博覧会はその後も相ついで開催されたが、これがわが国の工芸発展のために大いに寄与し、こうした機会をとらえて、九谷焼は欠かさず出品参加し、世界にその名を知られるようになった。

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 九谷焼の貿易輸出は、明治20年代には日本における輸出陶磁器の第1位を誇り、「ジャパンクタニ」の名を世界にとどろかせた。その当時の九谷焼の国内生産量の8割が輸出向けだといわれている。しかし、明治30年代(19世紀末〜20世紀初)に入り他産地の追い上げ、粗製濫造による弊害、硬質陶器の進出などによって低落の一途をたどり、明治30年代末には急激に落ちこんでしまった。

 輸出された主なものは、大小の花瓶が中心で、中には2m近い大花瓶もあり、それらは庄三風な金襴彩色で見事に加飾されているが、主として室内装飾の置物か、ランプ台に転用されて用いられている。そのほか型物の置物や、コーヒー、紅茶の揃セットなどが主なものであった。

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 なお、上記博覧会への参加や貿易輸出に積極的な役割を果たしたのは、九谷焼貿易商人であった。

 寺井の綿野吉二金沢の円中孫平などは著名で、ほかに寺井の井出善太郎・庄川庄次、小松の乾七郎・岩田与平・筒井又七・川尻喜平・酢屋久平・藤田東作・三島六平・松本佐平・打田平太郎、金沢の谷口吉次郎、大聖寺の堀野政三郎、北儀助・毛利清平・大沢十次郎などが知られている。

 これらの人々はともに博覧会出品参加、横浜や神戸あるいは世界各地に支店や出張所を設けて九谷焼の輸出貿易に力を注いでいたのであった。

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                                       (『石川新情報書府』より引用・編集・加筆)

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