本多貞吉は1766年、磁器生産の先進地・肥前島原に生まれた。若い時に窯の構築や素地の原料などの知識と技術をもって京都に上り、青木木米に師事した。木米とともに朱笠亭の著書『陶説』を読んで感動、陶芸への志をいっそう強めた。
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1807年加賀藩の招請で木米とともに金沢に来て春日山窯にて製陶。その後木米が京に帰った後、近郊の陶磁石を探索し、1811年に小松市八幡の花坂山に良質な陶磁石を発見したため、若杉村十村の林八兵衛の協力を得て若杉窯を開窯した。 貞吉は赤絵勇次郎・粟生屋源右衛門らを採用・育成し、再興九谷の人的源流となった。陣容は50人程度と言われているが、藪六右ェ門・九谷庄三などいずれもこの若杉窯で青春の希望に燃えて技術を磨いた陶工達である。
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若杉窯の素地は淡い卵黄色で初期のものは不規則な貫入がある。貞吉は染付けを得意としたが、初期のものは黒味がかった青で描かれており、他に青磁・瑠璃・赤絵南京・古九谷風などを手がけている。陶名に『貞橘』と記した作品もある。 1816年若杉窯は加賀藩奉行所の支配下となり『若杉陶器所』と改名されたが、貞吉は1819年54才で若杉にて没している。その子に清兵衛(養子)・栄吉(実子)があった。貞吉の死後、肥前島原出身の赤絵勇次郎が二代目工場長となっている。なお、八幡村八幡宮には勇次郎が寄進した石灯篭(対)がある。 昭和11年9月加賀藩主の後裔・前田利為題字の『陶祖本多貞吉記功碑』が若杉村に健設された。 |
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陶祖本多貞吉記功碑 | 三田勇次郎寄進の石灯篭 |