再興九谷・若杉窯と八幡窯の歴史と名工達
 

*****************************************  再興九谷・若杉窯の歴史 ***************************************

1811年  青木木米門下の本多貞吉が花坂山に陶石を発見。若杉村十村の林八兵衛の協力を得て若杉窯を始める。

(以後、若杉窯は多くの名品・名工粟屋源右衛門・三田勇次郎・庄三等)を生み、再興九谷の一大源流となる。)

1816年  加賀藩が若杉窯を郡奉行所の支配下に置き、『若杉陶器所』と改名。本多貞吉を初代工場長とする。陶工の数は50数名と言われている。

1819年  貞吉没し、開窯当初の職工達(藪六衛門・粟屋源右衛門等)が小野窯へ順次流出。

1822年  藩は体制強化の為、金沢の陶器商・橋本屋安部衛(若杉安部衛)を窯元とし、三田勇次郎(赤絵勇次郎)を二代目工場長にする。安部衛は若き庄三を雇用。

      (庄三も、1832年17歳のとき小野窯に移る。さらに1841年26歳で独立)

1836年  橋本屋安部衛の息子安右ェ門の時、火災に見舞われ隣村の八幡村に窯を移す。
      (若杉窯は1875年に閉窯となる)

 


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****************************************  九谷焼・八幡窯の歴史  ****************************************

1870年  松原新助が若杉窯から独立し、八幡村の清水山に25歳にて開窯。

1872年  奥野幹次郎が新助に招かれ八幡村に来て、新助と共に置物製造を始める。幹次郎の作品はジャパン九谷の最高級品として取扱われる。(その弟子には勝木作太郎・林滋能・若杉為吉等がいる。)

1882年  川尻屋嘉平が八幡村に開窯、2年後には松原新助・若藤源次郎・高木宗七等と共同円窯をつくる。同年、新助は上絵専門の松本佐瓶(松雲堂)と提携。その1年後、ジャパン九谷の大量受注に成功する。

1887年  新助はフランス風円筒窯や有田風窯を次々と築き、良質の素地を生産。『新助製』素地として名をはせる。時まさにジャパン九谷の最盛期のことである。

1891年  新助の招きで山口県の大塚秀之丞が八幡に来て、石膏型による置物原型の製作・指導を行なう。秀 之丞は七福神・高砂が得意で、指導を受けた陶工には、新助・幹次郎を始め、勝木作太郎・林滋能・ 宮本磯右ェ門(宮本製陶所)等がいる。なお、新助は1899年享年54歳で病没する。

--- 置物陶工として最も活躍したのは明治後半期の勝木作太郎で、大正期はその弟子の東田喜久治(東光窯)・松本清・加納新七の三羽烏、昭和初期は作太郎の流れを汲む宮本磯吉(五十吉深香陶窯)・山本実等が活躍する。 ---

明治末期  明治天皇の御前製作の経験を持つ女流彫刻家乾月谷(実名乾はつ)が宮本鶴松(磯右ェ門の息子)に 招かれ、置物原型の指導・製作を行なう。特に月谷の観音は『八幡の観音さん』として名声を博した。

大正昭和  東京芸大教授の沼田一雅が置物原型作成の指導を行なう。各窯元から数名の受講生を募集し、一回 に4週間程の期限を切って指導したという。その後、石川県立金沢工業高校の青木外吉・宮川準一・ 板谷波山、石川県立工業試験場の小川恭太郎・都賀田勇馬、石川県立工芸指導所の浅野兼・高橋介洲 等の指導もあって、八幡は九谷焼置物生産の中心地としてその地位を固めた。

 

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