|
1836年
再興九谷・若杉窯が火災に見舞われ若杉村から隣の八幡村に窯を移す。(1875年に閉窯) 1870年 松原新助が若杉窯から独立し、八幡村の清水山に25歳にて開窯する。 1872年 奥野幹次郎が新助に招かれ八幡村に来て、新助と共に置物製造を始める。幹次郎の作品はジャパン九谷の最高級品として取扱われる。(その弟子には勝木作太郎・林滋能・若杉為吉等がいる。) 1882年 川尻屋嘉平が八幡村に開窯、2年後には松原新助・若藤源次郎・高木宗七等と共同円窯をつくる。同年、新助は上絵専門の松本佐瓶(松雲堂)と提携。その1年後、ジャパン九谷の大量受注に成功する。 1887年 新助はフランス風円筒窯や有田風窯を次々と築き、良質の素地を生産。『新助製』素地として名をはせる。時まさにジャパン九谷の最盛期のことである。
|
![]()
|
1891年
新助の招きで山口県の大塚秀之丞が八幡に来て、石膏型による置物原型の製作・指導を行なう。秀
之丞は七福神・高砂が得意で、指導を受けた陶工には、新助・幹次郎を始め、勝木作太郎・林滋能・
宮本磯右ェ門(宮本製陶所)等がいる。なお、新助は1899年享年54歳で病没する。 ---置物陶工として最も活躍したのは明治後半期の勝木作太郎で、大正期はその弟子の東田喜久治(東光窯)・松本清・加納新七の三羽烏、昭和初期は作太郎の流れを汲む宮本磯吉(五十吉深香陶窯)・山本実(菊仙窯)等が活躍する。なお、陶工は窯主・窯専属とフリーに分かれる。---
|
明治末期 明治天皇の御前製作の経験を持つ女流彫刻家乾月谷(実名乾はつ)が宮本製陶所の宮本鶴松(磯右ェ門の息子)に
招かれ、置物原型の指導・製作を行なう。特に月谷の観音は『八幡の観音さん』として名声を博した。 大正昭和 東京芸大教授の沼田一雅が置物原型作成の指導を行なう。各窯元から数名の受講生を募集し、一回 に4週間程の期限を切って指導したという。その後、石川県立金沢工業高校の青木外吉・宮川準一・ 板谷波山、石川県立工業試験場の小川恭太郎・都賀田勇馬、石川県立工芸指導所の浅野兼・高橋介洲 等の指導もあって、八幡は九谷焼置物生産の中心地としてその地位を固めた。 (八幡の九谷焼窯元の一覧を参照)
|
![]()
(上図:布袋制作中の乾月谷(守山時代)
|